AKB48の何がそんなにいいのかと言えば、ちゃんとアイドルをやってた、あたりまえのことをあたりまえにやっていたから、それにつきる。あたりまえのことはできて当然と思われる向きもあるかもしれないが、それができてないことが極めて多いということは、社会人の方々なら日々体験してると思う。
いわゆる「アイドル冬の時代」がいつ始まっていつ終わったか、あるいはそもそもそんな時代が存在したのか否か、様々な見解があるが、'00年代初頭は非常に明るい展望が持てるシーンであったと思う。アイドルに対するネガティヴな印象は消え去り、「アイドル」に対する抵抗は低くなり間口は広がった。
であれば、本来であれば様々な取り組みが見られてもよかったはずだが、実際にはメジャーの劣化コピーでなんの工夫も無かったりとか、単なる手抜きだったりだとか、あたりまえのことができないようなのが続々とシーンに見られるようになっていった。誤解のないように念のため言えば、どの時期でも地道に立派にやってる人(グループ)はいた。アイドルになることへの敷居が低くなって頭数が増えたことで、ちゃんとやってる人が比率として減ったかたちとなり、シーン全体としては停滞あるいは後退した、との理解が妥当だろうか。結果、歴史は繰り返したか、時計の針がぐるっと一周して元に戻ったか、あたかも「アイドル冬の時代」が再来したかのごとき風景。さらに、それを嘆く人すら少ないという点では、かつての「冬の時代」より凄惨かもしれない。
そうした荒涼としたところに、あの21人が新たな大地を創っていった。そもそもメンバーが集まった時点でまだ劇場は無かったんである。「AKB48」という名前も定かでなかった。当時、「ドンキ8階の専用劇場で毎日コンサートやる」なんて話はヲタの夢想か、さもなくば詐欺師の出任せでしかなかった。
けれど、あのメンバーは実際にそれをやってのけたのだ。詐欺師の出任せという「嘘」を「実(まこと)」にしたのは、間違いなくあのメンバー達だ。
そのことは、我々は実際に観てきたはずだ。俺たちと彼女たちを遮るものは柱以外に何も無かった。まやかしやバイアスが入り込む余地はない。
握手会も撮影タイムも、予定調和の「サプライズ」も、押し付けがましい「感動」も無い。一日一日をきっちりと、あたりまえをあたりまえに積み重ねていく。昨日来た人も、今日来た人も、明日来る人も、間違いなく純粋に楽しませてくれる。だからこそ深く心に刻まれた。
アイドルファンってのは卑しい生き物なので、普通はいい現場があったら吹聴せず隠すものだ。しかしAKB48に限っては、みんな語りたくて語りたくてしょうがなかった。さんざんアイドルを観にきて観飽きたような人たちを心底感動させ、皆々語りたがった。それは、冬の時代に辛酸をなめてきた、同じ時代を生きてきた者たちが、今まで渇望し観たくてもずっと観る事のできなかった「あたりまえのアイドル」に出会えた喜びを分かち合いたかったからではなかろうか。
メンバーはことあるごとに、「初心を忘れずに」ということを言うが、我々も、あの、まだ人もまばらな劇場で出会えた日、過ごした日々の事を、忘れないようにしたい。「AKB48」という大地をあのメンバーたちが切り開いたのはまぎれもない事実であり、そこに立ち会った我々一人一人が、その証人である。
★死語と言うか青臭い言い回しなのだけど、アイドルに対し「裏切られた」とか「失望した」とか感じた事はあるだろうか。別にそんな大仰でなくても、今風に言えば「凹んだ」とか「萎えた」とか「折れた」とか、言葉はなんでもいいんだけど、そういう感情。
長年、少なくとも旧世紀からアイドルファンをやってる人間なら、そういう感情を持った事は、程度や状況の差はあれど少なからずあるのではなかろうか。
そういう感情を持つという事は、我々は、何かしらの希望を持ってアイドルと接しているという事だ。陳腐な言い方を借りれば、「夢を託している」のかもしれない。
もちろん、そんな我々の夢など、あのコらは知ったこっちゃない。彼女らには彼女らの人生がある。それを束縛する事など誰もできないのだ。まあどこの世界にも例外というものはあるが、例外ゆえに今は除外して話を進める。
でだ。我々が彼女らに重ねあわせている希望や夢とは、なんだろう。
一般論的に言ってしまえば、人それぞれ、ってところだろう。我々にとっても、彼女らにとっても。
そうした中で、我々と彼女らの希望や夢とかが一致してる・・・とは言わぬまでも、暫定的、部分的にせよ同じ方向を向いているときに、我々や彼女たちの意思や意向とはまったく違う理由で、それらを断念せざるを得ない場合、というのが、ある。時折ある。むしろしょっちゅうある。そっちほうが多いくらいある。
何故だ。
世の中は、需要と供給で成り立っていると言う。アイドルになりたい人がいて、それを好きな人がいる。にもかかわらず、それが成り立たないことが往々にしてある。『これから』ってときに、プロモーション企画がろくでもない方向に転がり出したりするのは何故だ。本人のモチベーションもファンの渇望も高まっているときに、プロモーション側が何の動きも無い、あるいはろくなことをしない、という現象が起こるのは、何故だ。
私はいわゆる「送り手側」で活動した事は無いので、個別の事象に関する詳細は伝聞レベルでしか知らないし、一般論的にも憶測の域を出ない。なので、「まあ、この世界いろいろあるよねえ(すぱぁ〜)」とか「現実はキビシーんだよ現実は(すぱぁ〜)」とか、もっともげな回答が最大公約数なのだろうなとは想像する。なんせそのテの話は、自分の職場でもさんざん聞かされてる話であれば、納得しないわけにはいかないのだ。
それでだ。みんなそれでいいと思ってんのかって話だ。
アイドルがいて、ファンがいて、それで十分なのではないだろうか。むしろ、それしかありえないのではないだろうか。
特に名は秘すが、テレビにしょっちゅう出てるとあるグラビアアイドルさんが、ラクーアで握手会をやったとき、150人くらいしか集まらなかったことがあったそうだ。俺が見てきたラクーアのイヴェントと言えば、メディアでの知名度は低くても、握手会の列はいつもメリーゴーランドのあたりまで列が伸びてしかもループ多数とかそんなんばっかりなので、意外だった。
その意味では、メディアの出演と知名度は比例しても、知名度と人気は比例しない、メディアによって得た名声はメディアに切られると同時に失うが、そのコが自力で獲得したファンは、そうやすやすと離れない。メディアではなく、自分で判断して脚を運んでいるからだ。同時に、そのテの人間は“移り気で飽きっぽい”ので、定着させるのにそれはまた一苦労ではあるが。
うまくまとまらなかったので気が向いたら続くかもしれない。
自分の好きなアイドルぐらい自分で選べよ、ってずっと言い続けているんだよなあ俺は。AKB48がはじまる前からずっと。
自分の好きなコがメディアにたくさん出て注目を浴びる。同じクラスや職場の人も褒めてくれる。そりゃうれしいよ。自分の好きなコがメディアでの扱いが悪いとかそもそも出れないとかだったら残念だしくやしいし、本人はもっとそうだろう。
けれど、メディアに出てないからという理由を持ってしてダメとか終わったとか言ってるやつって何?
メディアって原義的には媒介する媒体でありすなわち手段にすぎない。主体となるのは送り手であり、受け手である。
にもかかわらず、なんで好きなアイドルの基準がメディア露出の多寡によって定められなければならないのだ。
パンピーは別にいいんだよそれで。いいとか悪いと言うか、そもそも世の中の圧倒的多数の人はアイドルに興味が無いわけで。そういう人たちにとっては、アイドルなんざクルマに乗りながら眺める看板以上の価値は無い。良くて、観光地で選ぶお土産レベルの関心しか持ってないだろう。
我々はどうか。必要であればイヴェント行く日は仕事を無理矢理定時で上がったり休んだり、土日は平日より忙しく動き回り、場所も時間もすべて最優先で手段を問わず(あえて問わない)行動する。同時にそれらを実行するかどうかも自分で判断している。誰の指図も受けず全部自主的に動いている。だから客が2ケタの現場でも数万人の現場でもやることはあんまかわらなかったりする。あるいは、自分の頭で考えて最も適切な判断を下す。アイドルファンってのはそういうものだ。
しかし、表向きアイドルファン面をしておきながら、メディアの傀儡として扇動し、俺様はアイドルオーソリティであり慧眼だなどと抜かすヤツらがいる。まあそんなのの化けの皮などはがすまでもない薄っぺらさなのでどうということはないし、だから俺もスルーしてきた。元々人様のスタンスに口を出すのは好きじゃないし。だが、そういう手合いをありがたがる風潮が無視できぬレベルになってるようなので指摘だけはしておこう。
今までさんざん上から目線で屁理屈こねまわしておきながら、体制が整った頃になって手のひらを返すごとくおべんちゃら並べたり、気にもしてなかったくせにメディア露出が始まった頃を見計らって「評価」して自分の手柄みたいに言い出したり。何かにつけてメディア受けがどうこうなどとしたり顔で言うのは営業マンの仕事であり、ファンの発言ではない。
メディアが媒体であることを理解せず、ブラウン管の向こうや雑誌を手に取る人の姿を想像せず、自分の都合でメディアの姿勢とファンの姿勢を使い分けるコウモリ野郎ども。その存在は、アイドル当人たちにとっても、自己の過小や過大な評価の元となり、さまざまな悲劇の温床となる。
そんなコウモリ野郎どもの跳梁を許すシステムは21世紀には不要だ。ぶち壊さなければいけない。それは、我々一人一人が、自分の好きなアイドルは自分で選ぶこと、そこからはじまると思う。
とまあ、ここまで書いてきて気づいたんだけど、ここ読んでる人には激しく今さらだったわ。コウモリ野郎どもや、それをありがたがるような人は、ウチみたいなマイナーテキストサイトにはたどり着けないだろうし。
俺みたいな泡沫アイドルファンでも、長年やってるとスタッフさんとかのいわゆる「送り手側」の方々とお話しする機会と言うのは、多々というほどではないが少なからずある。そうした方々からお伺いしたお話の中で、ファン側としてひっかかってることもあって。
何年か前に、そこそこ動員のあった、それもかなり勢いのあったアイドルグループのスタッフさんが言った言葉。
「このままじゃいい思い出で終わってしまう。もっともっとがんばって(このグループを)成功させなければならない」
志としては実にすばらしい。アイドル(グループ・プロジェクト、等)が失敗したと言われる場合、ファン側から見て「そもそもやる気無かっただろ」ってツッコミたくなるケースが少なからずあるから。
俺が引っかかったのはその「成功」の定義。何を指して「成功」と言いたかったのか。何を目指しているのか。その人も直接は言わなかったし、俺もその人が何を指してるのかわからなかった。
俺が若かりし日にボウイ(BOOWY・真ん中のOには斜線)ってロックバンドがいてな。テレビにはほとんど出てなかったんで、田舎者の俺がその存在を知る頃には、すでに武道館公演を終えていた。テレビのベストテン番組に毎週1位にランクされながらも出演せず、それでも人気はとどまるところを知らなかった。まさに人気爆発そろそろ社会現象化しようって矢先に解散宣言。 最後のライヴは当時完成して間もない東京ドームだった。
レコード会社とかにしてみれば、解散しなきゃサザンやB'zみたいにもっともっと儲けられたかもしれない。解散するにしても解散ビジネスだってできたかもしれない。
でも、ボウイを失敗だなんて言う人は誰もいない。このボウイが火をつけたバンドブームが、当分の間日本の音楽シーンを燃やし続ける事になるのだから。おかげでアイドルたちは冷や飯を食わされるハメになったがそれはまた別の話。
何度か書いているが、俺は記録に残るアイドルより記憶に残るアイドルが好きでな。もちろんボウイだって記録はたくさんあるが、それより数字で現せないほどの印象を多くの人の心に刻んでるだろう。だから当時を知る人とかにボウイの何がすごかったか尋ねても「いやボウイすげえんだよ」しか言わないと思う。いやボウイすげえんだよ。
俺は、自分の好きなアイドルたちがそういう存在になれたらステキだと思ってる。たくさんの人たちの心に、たくさんのステキな想いを刻んでいく存在であって欲しい。男の子にも女の子にも憧れられる存在になって欲しい。
アイドルとしては、どういうのが「成功」だと思われてたんだろうか。単にメディアにたくさん出る『だけ』、CDやDVDがたくさん売れる『だけ』、でいいのだろうか。ファンを増やすだけ増やす『だけ』で、そのファンがどう思うかはどうでもいいのだろうか。テレビに出れるからと言って辱めを受けるような内容だったりとか、CDの中身にやる気が感じられなかったりとか、ファンがイヤな思い出だけを残して離れていったりとか(楽しい事だってあったはずなのに)、数字が出れば、実績が出れば、それでも「成功」だと思われてるんだろうか。
自分の好きなアイドルたちが、マスコミの道具になったり(本来マスコミが道具なんだよ)、芸能界村で使い捨てにされるのは、もう見たくない。年寄り臭い言い方になるが、今の若いファンに、アイドルでイヤな思いをしてほしくない。そういうのはもう俺らの代ってか20世紀で終わりにして欲しいんだよ。